雑誌記事索引集成データベース ざっさくプラス 総合雑誌から地方紙まで、明治から現在まで雑誌記事索引集成データベース ざっさくプラス 総合雑誌から地方紙まで、明治から現在まで

検索記事
総数
20世紀メディア情報DB連携時31,277,375
20世紀メディア情報DB非連携時29,312,478

お知らせ

9/7 雑誌「新青年」

今でこそ、大学での研究対象になっている「新青年」とその作家たちだが、当時の地位は意外に低かったらしい。
現在、「新青年」の記事として登録されているのはたったの10件。そのうち出典を見ると6件までが「宝塚文藝図書館報」で、そのほとんどが映画関係の記事である。残りの4件は、戦後の「文学年表」類から採録したものだ。
このデータベースは、同時代の国文学関係の幾種もの目録が搭載されているが、それらの目録からは、完全に無視されていたといっていい。雑誌そのものが採録対象外である。

現在、新青年の総目次を準備中だが、これが搭載されると「新青年」の記事は一挙に5000件を超える。

9/2 本日。

ある大学の図書館員さんの研修の一環として、データベースの説明に伺った。
小生は、二桁の人の前で話す機会は、めったに無いのであがってしまってしどろもどろだった。酒席なら元気がいいんだけれど。

いろいろ手厳しくも暖かなご指摘をいただいた。やはり、よりよいものにしていくには、ご注文やご指摘が一番ありがたい。

ちょっと前、ここでNDLデータのダブりを問題にしていたが、本データベースのダブりの処理を本格的に考えなくてはならない時がきたようだ。

このデータベースは、戦前期の雑誌記事を検索可能にするため、先人の黙々とした努力の結晶であって、しかも埋もれているものの多い目録類をデータベース化することで、再び活用することを目的に作られた。
二次文献を基に作っているので、目録自体の持つ限界(誤りや記述の不統一、不備)に影響されるという弱点を持つ。
また、複数の目録、総目次などを搭載しているので、データのダブりがある。しかし、出典となった目録の性格や採録された目録の数も重要な情報を含むので、当面、ダブりは整理しない方針だった。

しかし、利用者にとって相当にわずらわしいというご意見だった。
同じ論題が3本あった場合、1つ残して2つを削除すると、出典情報は失われる。削除ではなく統合しなくてはならない。手作業ではいつ追いつくかわからない。うまい方法、あるいはストレスの無い見せ方は無いだろうか。

休憩に入って、「あのDB好きよ。出典もあるし」と囁いてくれたお姐さんがいた。その後姿に後光が射していたのであった。



8/15 無駄。

本日現在で、邦文雑誌の記事データベースである、CiNiiと本データベース、某商用データベースのデータ量を比べると、

CiNii          1234万件
本データベース   1127万件
某データベース   1080万件

である。見かけ上はなかなか壮観と言える。
しかし、この三者とも、NDLの「雑索」のデータ、895万件を取込んでいる。ということは、それぞれの正味は、

CiNii          339万件
本データベース   232万件
某データベース   185万件

ということになる。つまり、みんな「張子の虎」である。といえば、そうなのだが、NDLのデータが異常に多いのであって200万前後の独自データというのは決して少ない数ではないのである。
さらに、CiNiiと某DBはともに戦後が検索対象(CiNiiは一部戦前にさかのぼる)である。
CiNiiはもちろん、某DBも学協会誌や年報類を独自に補充してきたとしているので、この二つの間にも相当な重複があると思われる。(本DBの部分は、主として戦前と地方なので重複は少ない)
利用者は、それぞれのデータベースを引き比べるとき、組み合わせによって少ないもので7~8割、多ければ9割以上の同じデータを検索しなくてはならない。

利用者の立場に立てば、腹立たしいくらいばかばかしい。
課題である。

8/10 冷や汗。

嘉村礒多と嘉村磯多が同一人物であることは、NDLの処理や磯多という作家がほかにいないことから間違いないと思われるが、間違いやすい「菊池」と「菊地」をめぐっては冷や汗をかいた。
「菊池大麓」という人がいて、よく「菊地大麓」と誤記される。名前はかなりユニークでほかに例を見ない。結構、権威ある図書館でも間違いが少なくない。しかし、戦前戦後を一括して検索すると現存の人で「菊地大麓」という建築家がいることがわかった。
一括して修正するとえらいことになるところだった。

菊池大麓
生誕 1855年3月17日
死没 1917年8月19日
職業 数学者、政治家
菊池 大麓(きくち だいろく、安政2年1月29日(1855年3月17日) - 大正6年(1917年)8月19日)は、明治・大正期の数学者、政治家である。
ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%A4%A7%E9%BA%93

目録ならば、案外気がつかずにパスすることもあるが、DBとなるとこの一字の違いで引っかからない。〈菊池大麓=菊地大麓〉としておけばいいのだが、今度は、建築士の菊地大麓さんを巻き添えにしてしまう。


7/24 「暴力団」考。

何年か前、あるメーリングリストで、「暴力団」という言葉の初出についての質問がロンドン大学の司書の方からあった。

何でも、学生が日本の暴力団についてレポートを書いている。
日本の「暴力団」は、戦前からの香具師や博徒などのいわゆる伝統的やくざに、戦後生まれの愚連隊を総称して言うようになった言葉でその後「暴力団対策本部」「暴力団対策法」のように警察や法律用語にまでなったというのが、その学生の仮説のようだった。
それで、「暴力団」という言葉は、戦後のいつごろから使われるようになったのかという質問だった。

それで、当データベースで検索してみるとその当時でも、大正期に用例が見られた。あの『蟹工船』の中にも用例があるらしい。

それを、お知らせしたら大変喜ばれたが、学生は仮説がひっくり返るし、レポートの提出期限は一週間後ということで頭を抱えているということだった。

そのときは、「暴力団」ばかりに目がいって、「愚連隊」が戦後派であることは疑いもしなかったが、最近、検索してみて「愚連隊」も戦前からある用語であることを知った。

# 愚連隊の仙太
著者 北林透馬
刊行年月日 昭和10年3月
巻号 5-3
掲載 オール讀物

# 横浜愚連隊回想記
著者 安田樹四郎
刊行年月日 昭和14年8月
巻号 21―8
掲載 改造

筆者の北林透馬、安田樹四郎は横浜に関係が深いようなので、「愚連隊」は、横浜生まれの言葉かもしれない。

なお、ロンドン大学の学生の「仮説」とまったく同じ組み立ての記述が『警察白書』(平成元年)にある。
http://www.npa.go.jp/hakusyo/h01/h010101.html
『警察白書』によれば「愚連隊とは、終戦直後から繁華街等を中心に当てもなくうろつき、ゆすり・たかり、窃盗等の違法行為を行っていた不良青少年の集団をいい、これらの集団の中核は戦地から復員してきた若者たちであり、警察の実務用語では「青少年不良団」と呼ばれていた。金になるものなら何にでも手を出すという現在の暴力団の風潮の源は、この時期に発生した愚連隊の活動等に求められるであろう」という。

【追記】「Wikipedia」の愚連隊の記述も、戦後派説である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E9%80%A3%E9%9A%8A