お知らせ
5/21 登録件数。
リニューアルに伴い、CiNiiもマガジンプラスも、登録件数の表示をやめてしまったようだ。表示されていた段階では、CiNiiにははるか及ばず、マガジンプラスは何とか追い抜いて50万件くらい多くなっていた。
後発のわれわれとしては、目標が無くなって残念である。
2/28 「画像」検索。
今度のリニューアルに関しては、「画像」検索の機能を追加したいと思う。
別に「機能」がなくても、それらしい「展開語」を検索語に加えればいい理屈だが、あれば便利ではないか。
たとえば、「郵便」というキーワードでは、全部で5807件ヒットしてしまう。「画像検索」とした場合は、「郵便」で検索すると、次のような項目だけが検索結果として表示される。(【 】内は展開語)
少し見当違いな結果も出るし、元データが不備なものは、しようがないのであるが。たとえば、竹中英太郎は『新青年』の挿絵画家として著名だが、元データに「挿絵」の項目がないため『新青年』の挿絵はヒットしない。
[2/29] β版を実装しました。お試しください。
【図版】
<図版>郵便脚夫
著者 川上澄生
刊行年月日 昭和7年11月
巻号 8
掲載 版芸術
【口絵】
《口繪》加奈陀及び阿弗利加の郵便脚夫
著者 無記名
刊行年月日 明治35年12月
巻号 刊行年月日参照
掲載 中央公論
〔彙報〕口絵の解説/地租条例中改正/登録税法中改正/郵便貯金利子の改正/神宮司庁職員等官等俸給改正/四十三年度予算/官国幣社共通金支出額/神宮皇学館卒業式/神職養成部教習科卒業式/聯合神職大会(名古屋)/神社関係者大会(三重)
著者 無記名
刊行年月日 明治43年4月
巻号 9-4
掲載 神社協会雑誌
挿画(ヴインツエント・ヴアン・ゴオホ)/自画像(パイプを銜へたる・口絵)、風景(43)、郵便配達夫(75)、プロヴアンスの田舎道(111)、手紙の一頁(裏表紙)
著者 無記名
刊行年月日 明治44年10月1日
巻号 2-10(明治44年10月号)
掲載 白樺
〈口絵〉草野を縫ひ行く郵便脚夫
著者 ゼフェレー筆
刊行年月日 大正3年3月1日
巻号 3-5
掲載 婦人評論
〈口絵〉紅風(「郵便物」の作者と本誌俳壇の新選者)
著者 無記名
刊行年月日 大正9年5月1日
巻号 4年5号
掲載 中央文学
〈口絵〉中央郵便局に雑沓せる罹災民
著者 無記名
刊行年月日 大正12年10月1日
巻号 2-10 大震災記念号
掲載 女性改造
《口絵》支那事変国債の郵便局売出成績
著者 藤田茂
刊行年月日 昭和14年9月
巻号 4-9
掲載 財政
2012/1/30 リニューアルの季節。
データベースのデータは順調に増えているが、連携するデータベースが次々リニューアルしているので、何もしないのは居心地が悪い。
いろいろいじっていると、このデータは検索では金輪際ヒットしないだろうというものもある。何十年続けても一度も検索対象にならないような可哀そうなデータである。めざすものをピンポイントで探し出すのがデータベースなら、一覧表示でなければ気がつかない、見つからないというものもあるのは間違いない。
NDLもそうなったようだが、検索結果の巻号表示をクリックすれば、その号の目次がすべて表示されるとか、その辺の工夫をしながら、当データベースもリニューアルをしていこうと思う。
もうひとつ頭の痛いのは、webcatが来年3月で終了することになった。総合的なデータベースというわけではなくとも「雑誌の所蔵情報」に特化した場合、まことに便利なデータベースである。「所蔵情報」だけを目的にした場合、後継のデータベースは不要な情報が多すぎる。
簡潔な書誌情報と所蔵情報が一ページにおさまっているwebcatはすてがたいのだが。
http://www.nii.ac.jp/CAT-ILL/PUB/nl2/No33/002P.htm
終了までまだ一年あるから存続運動をしようかな。
8/30 三度、「文献ジャーナル」
1960年ごろ、富士短期大学は本部棟や講堂に優先して図書館建設を進めていた。図書館建設を優先したのは当時の理事長二上仁三郎氏の方針であったが、資料の重視は開学以来の校風でもあった。同時に、図書館に見合う蔵書の充実を急務としていた。図書購入のための予算は短期大学の中では群を抜くといわれていた。さらにその図書館を特徴付けるものとして全国の大学・短大のすべての紀要を集める計画が立てられた。そして、一短期大学にすべての紀要を集める方策として「受贈雑誌のすべての論文名を収録した雑誌」の刊行が計画された。この壮大な企画の裏には、当時、富士短期大学の教授で和算研究家の萩野公剛氏(1927~1992)の熱意があった。萩野氏は、『日本数学史文献総覧』全8巻(1963~67)をまとめるなど文献の整理に非常な熱意と理解があった。また、1970年に課外事業として華道や茶道を取り入れたときには、自ら茶道教室に入門してそれに熱中するなど何事にも徹底しなければすまないところがあった。紀要を集める手立てとして計画された『月刊文献ジャーナル』であったが、創刊してまもなくの1965年頃には出版部に教育ジャーナリストの上田唯郎氏(1904~?)を招聘し陣容を固めた。編集方針は、欠号なく収集・掲載すること、創刊以前に刊行された紀要類も集め『月刊文献ジャーナル』にバックナンバーの欄を設けるなど、創刊号からの収録と情報の継続にこだわった。
1970年7月の通巻100号記念号には、欠号なく紀要を収集するための「紀要番号」の工夫をした講師鬼木繁氏や、刊行を企画した萩野公剛氏の回想が掲載されているが、とりわけ誌名決定を巡る萩野氏の回想は興味ふかい。誌名にはその性格からして「文献」の2文字は抜きがたいが、いかにも硬い。おりしも週刊誌ブームで、『朝日ジャーナル』が異彩を放っていて「ジャーナル」という言葉にひかれた。しかし、この雑誌の使命はなんと言っても継続である。そのため、発行する内部関係者に自覚を促す意味で「月刊」を冠し「月刊文献ジャーナル」を名称としたというのである。「月刊とあるのは、毎月発行するためにわざわざつけたのであって、誌名の一部」であるとも述べている。継続に対する並々ならぬ決意が伺える。実際、病弱であった萩野氏が亡き後も、『月刊文献ジャーナル』はその後、三十年間継続する。発行にはどこからの助成も求めず、富士短期大学独自に行い、有料部数は最大で500部前後で常に赤字を抱えていた。100号記念号で理事長の二上仁三郎氏は、「この地味な、根気の要する仕事を今後とも続けることにいささか自負の念を禁じえません」と小声で自負と「今後とも続ける」ことを宣言している。
一方、カレントな情報は『月刊文献ジャーナル』が刊行される都度チェックをすれば、さほどの手間ではない。しかし、累積するバックナンバーから目的の記事を探し出すのは容易なことではない。同じ100号記念号には、「利用者として一言」として、年に一度の索引と、五年に一度の累積版総索引の刊行が強く要望されている(大妻女子大学助教授鈴木徳三氏)。『月刊文献ジャーナル』では、ついにこの「累積版総索引」までは手が回らなかったわけであるが、毎月の累積された目次情報をデータベース化することによって、この要望も満たされることになるわけである。
ところで、この大事業に関し富士短期大学は誠に控えめである。過去三度刊行された『学園史』にも二十五年史に僅か二、三行刊行の事実を述べているだけで、三十五年史、五十年史にいたっては一行も『月刊文献ジャーナル』刊行の記述がないのである。出版課長として同誌の刊行の実務を担い『学園五十年史』の編集に携わった斉藤隆壱氏は「自分たちのやったことを学園史に書くのは遠慮した」と淡々と語る。今後刊行されるであろう『学園史』には、一章を設け『月刊文献ジャーナル』の刊行のいきさつを詳述していただきたいものである。
われわれは過去のさまざまな業績を、新しいメディアに載せて生き返らせることで、こうした苦労が埋もれることのないように、今後も資料の発掘と活用を行い、コンテンツを充実させていきたいと願っている。
8/6 再び「文献ジャーナル」
「文献ジャーナル」のような大事業になぜ富士短期大学が踏み切ったのか。
1967年(創刊から二年目)の『富士短期大学学園二十年史』を見ても僅か2,3行刊行の事実に触れられているのみで、創刊号の刊行の辞もその仔細には触れていない。
「文献ジャーナル」で、DBを検索すると、わずかに次の一件がヒットした。
「月刊文献ジャーナル」の編集(書誌索引事例)
著者 斎藤隆壱
刊行年月日 1980年08月
巻号 4(3)
掲載 書誌索引展望
この記事と、「斎藤隆壱」という人が手がかりになるかもしれない。
かつて『雑誌記事索引集成』を作る過程で実感したのは、こうした大規模な書誌作成の背後には後藤新平とか筑波藤麿など熱心な人物の理解と情熱があったことである。「文献ジャーナル」を企画し推進した人の思いと業績を明らかにしたい。