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お知らせ

1/22 大学OPACとの連携。

所蔵情報に関して、本DBはNDLの所蔵、WEB CATの検索結果を表示してきました。
ISSNを持たない古い雑誌の所蔵を確認するには、上記二つを充実させるのが最適という判断です。欠号のあることの多い雑誌は、単館のOPACより、参加機関の所蔵情報が一覧できるWEB CATのほうが利便性は高いはずです。また、本DBの検索結果からNDLの所蔵が確認できれば、遠隔地複写の申し込みが可能になります(戦前期の雑誌記事の複写依頼は、直接NDL OPACからは不可能で、本DB経由でのみ可能です)。
しかし、大学OPACに連携できないのはなぜかという声も多く、上記の説明をそのつどするのも大変なので、来年度から大学OPACに対応することにいたしました。(ISSNを持たない雑誌は表示されません)

したがって、今後、所蔵情報に関しては、WEB CAT、NDLおよびそれぞれの大学のOPACの三種が表示されることになります。

1/20 グラフの衝撃

現在、「文藝春秋」の創刊号からの総目次を作成しています。

詳細検索の「雑誌名」に「文藝春秋」と入れて検索してみます。結構、衝撃の事実が現れてきます。
1948年、NDLは「文藝春秋」を雑誌記事索引採録対象にしますが、1958年に対象からはずし、1967年から再度採録を開始します。
1948年以前は、各種目録に採録された重要記事です。
ポッカリと、58年から67年までの10年間のブランクが一目瞭然です。
これは、このデータベースだけでなく、NDLの雑誌記事索引を取り込んでいるCiNiiもMAGAZINEPLUSも同様なはずです。
この問題は、近く「文藝春秋」総目次を搭載することで解決します。

便利な機能をつけると、問題点もすぐにわかってしまう。

2011/1/19 植民地時代の雑誌

このデータベースですが、植民地の雑誌も登載することを「宣言」しています。しかし、植民地時代といえども「日本語」の雑誌ばかりではない。全容は未知ですが、たとえば東京においても「在日本東京朝鮮留学生学友会」という組織が「学之光」という雑誌を発行しています。
当時の「京城」(ソウル)では、「文章」とか「人文評論」などと言う雑誌が出ています。もちろん、これはほんの一部に過ません。
「人文評論」の昭和14年新年号は「日本農民文学의動向」とか「内鮮의文化的理念」とか興味深い。そうかと思うと「現代美의書」という特輯を並べてみると「現代美의特性」「哀愁의退廃의美」「現代音楽의美」「現代美の病理学―機械、映画、女子、都市」「戦場의美」「制服의美」「女優의美」「現代男性美」「電髪」「機械美」「脚線美」「現代女性美」という具合でです。「電髪」はいわずと知れたパーマネントです。
いずれも、漢字交じりのハングルで縦組みですが、巻頭には「皇国臣民の誓詞」が(これは日本語)刷り込まれています。いずれの活字もできるだけ小さいのはせめてもの抵抗でしょうか。
韓国でもこの部分は手をつけていない(手をつけない)ようなので、次の課題として考えていきたいと思います。

12/31 NDLデータの入れ替え終了

2010年1月3日までの予定で、NDLデータの重複の処理を行う予定でしたが、本日終了して、従来どおりのサービスに復帰しております。
NDLデータの重複は70万件近くありましたので、本日現在のデータ量は、10,807,783件となりました。

NDLデータの重複処理については、提供を受けたファイルに①初期データ②訂正データ③削除データの3種があり、それを処理して搭載すべきところ、それをしていないのではないかというNDL側からご指摘を受け実施したものです(何で処理済のデータでないのかはともかくとして、当方の勘違いも原因でした)

12/23 雑誌「新青年」その2

雑誌「新青年」のデータを搭載した。(ただし、昭和期のみ。大正期は2010年初頭の予定)。9月には一挙に5000件を超えると予測したが、実際は、昭和期のみで13900件あまりとなった。

前述のように(9/7)「新青年」の記事は、10件しか登録されていなかったので、グラフはほぼ正確に各年別の記事数を表示している。
詳細検索で、誌名のみで検索すると記事は1938年をピークに急激に減少する。記事の数と雑誌のページ数、増刊号など年間の発行点数は比例するとし、このことと、国力に相関関係があるとすれば、日本の国力は1938年ごろを境に急速に衰え、太平洋戦争が始まった1941年は、まさに衰退途上ということになる。

博文館の問題ではないとしてですが。