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お知らせ

2012/1/30 リニューアルの季節。

データベースのデータは順調に増えているが、連携するデータベースが次々リニューアルしているので、何もしないのは居心地が悪い。

いろいろいじっていると、このデータは検索では金輪際ヒットしないだろうというものもある。何十年続けても一度も検索対象にならないような可哀そうなデータである。めざすものをピンポイントで探し出すのがデータベースなら、一覧表示でなければ気がつかない、見つからないというものもあるのは間違いない。

NDLもそうなったようだが、検索結果の巻号表示をクリックすれば、その号の目次がすべて表示されるとか、その辺の工夫をしながら、当データベースもリニューアルをしていこうと思う。

もうひとつ頭の痛いのは、webcatが来年3月で終了することになった。総合的なデータベースというわけではなくとも「雑誌の所蔵情報」に特化した場合、まことに便利なデータベースである。「所蔵情報」だけを目的にした場合、後継のデータベースは不要な情報が多すぎる。
簡潔な書誌情報と所蔵情報が一ページにおさまっているwebcatはすてがたいのだが。
http://www.nii.ac.jp/CAT-ILL/PUB/nl2/No33/002P.htm

終了までまだ一年あるから存続運動をしようかな。

8/30 三度、「文献ジャーナル」

1960年ごろ、富士短期大学は本部棟や講堂に優先して図書館建設を進めていた。図書館建設を優先したのは当時の理事長二上仁三郎氏の方針であったが、資料の重視は開学以来の校風でもあった。同時に、図書館に見合う蔵書の充実を急務としていた。図書購入のための予算は短期大学の中では群を抜くといわれていた。さらにその図書館を特徴付けるものとして全国の大学・短大のすべての紀要を集める計画が立てられた。そして、一短期大学にすべての紀要を集める方策として「受贈雑誌のすべての論文名を収録した雑誌」の刊行が計画された。この壮大な企画の裏には、当時、富士短期大学の教授で和算研究家の萩野公剛氏(1927~1992)の熱意があった。萩野氏は、『日本数学史文献総覧』全8巻(1963~67)をまとめるなど文献の整理に非常な熱意と理解があった。また、1970年に課外事業として華道や茶道を取り入れたときには、自ら茶道教室に入門してそれに熱中するなど何事にも徹底しなければすまないところがあった。紀要を集める手立てとして計画された『月刊文献ジャーナル』であったが、創刊してまもなくの1965年頃には出版部に教育ジャーナリストの上田唯郎氏(1904~?)を招聘し陣容を固めた。編集方針は、欠号なく収集・掲載すること、創刊以前に刊行された紀要類も集め『月刊文献ジャーナル』にバックナンバーの欄を設けるなど、創刊号からの収録と情報の継続にこだわった。

1970年7月の通巻100号記念号には、欠号なく紀要を収集するための「紀要番号」の工夫をした講師鬼木繁氏や、刊行を企画した萩野公剛氏の回想が掲載されているが、とりわけ誌名決定を巡る萩野氏の回想は興味ふかい。誌名にはその性格からして「文献」の2文字は抜きがたいが、いかにも硬い。おりしも週刊誌ブームで、『朝日ジャーナル』が異彩を放っていて「ジャーナル」という言葉にひかれた。しかし、この雑誌の使命はなんと言っても継続である。そのため、発行する内部関係者に自覚を促す意味で「月刊」を冠し「月刊文献ジャーナル」を名称としたというのである。「月刊とあるのは、毎月発行するためにわざわざつけたのであって、誌名の一部」であるとも述べている。継続に対する並々ならぬ決意が伺える。実際、病弱であった萩野氏が亡き後も、『月刊文献ジャーナル』はその後、三十年間継続する。発行にはどこからの助成も求めず、富士短期大学独自に行い、有料部数は最大で500部前後で常に赤字を抱えていた。100号記念号で理事長の二上仁三郎氏は、「この地味な、根気の要する仕事を今後とも続けることにいささか自負の念を禁じえません」と小声で自負と「今後とも続ける」ことを宣言している。

一方、カレントな情報は『月刊文献ジャーナル』が刊行される都度チェックをすれば、さほどの手間ではない。しかし、累積するバックナンバーから目的の記事を探し出すのは容易なことではない。同じ100号記念号には、「利用者として一言」として、年に一度の索引と、五年に一度の累積版総索引の刊行が強く要望されている(大妻女子大学助教授鈴木徳三氏)。『月刊文献ジャーナル』では、ついにこの「累積版総索引」までは手が回らなかったわけであるが、毎月の累積された目次情報をデータベース化することによって、この要望も満たされることになるわけである。

ところで、この大事業に関し富士短期大学は誠に控えめである。過去三度刊行された『学園史』にも二十五年史に僅か二、三行刊行の事実を述べているだけで、三十五年史、五十年史にいたっては一行も『月刊文献ジャーナル』刊行の記述がないのである。出版課長として同誌の刊行の実務を担い『学園五十年史』の編集に携わった斉藤隆壱氏は「自分たちのやったことを学園史に書くのは遠慮した」と淡々と語る。今後刊行されるであろう『学園史』には、一章を設け『月刊文献ジャーナル』の刊行のいきさつを詳述していただきたいものである。

われわれは過去のさまざまな業績を、新しいメディアに載せて生き返らせることで、こうした苦労が埋もれることのないように、今後も資料の発掘と活用を行い、コンテンツを充実させていきたいと願っている。

8/6 再び「文献ジャーナル」

「文献ジャーナル」のような大事業になぜ富士短期大学が踏み切ったのか。
1967年(創刊から二年目)の『富士短期大学学園二十年史』を見ても僅か2,3行刊行の事実に触れられているのみで、創刊号の刊行の辞もその仔細には触れていない。
「文献ジャーナル」で、DBを検索すると、わずかに次の一件がヒットした。

「月刊文献ジャーナル」の編集(書誌索引事例)
著者 斎藤隆壱
刊行年月日 1980年08月
巻号 4(3)
掲載 書誌索引展望

この記事と、「斎藤隆壱」という人が手がかりになるかもしれない。

かつて『雑誌記事索引集成』を作る過程で実感したのは、こうした大規模な書誌作成の背後には後藤新平とか筑波藤麿など熱心な人物の理解と情熱があったことである。「文献ジャーナル」を企画し推進した人の思いと業績を明らかにしたい。

8/4 「文献ジャーナル」

1962年から2001年まで通巻421号刊行された「文献ジャーナル」という雑誌があった。発行は富士短期大学出版部(現・東京富士大学)。

ここで「文献ジャーナル」というのは、「月刊文献ジャーナル」1巻1号(1962年)~32巻3号(1993年)およびその継続後誌である「文献ジャーナル」33巻1号(1993年)~40巻6号(2001年)を総称して言う。

これは、国立国会図書館の「雑誌記事索引」と並ぶ偉業である。
既述のとおり、国立国会図書館の「雑誌記事索引」は、採録基準の変更などで必ずしも創刊号から直近までを採録しているわけではなく、中途採録開始の雑誌も多い。本データベースでは、その空白を埋める作業を、戦前期、地方雑誌とならんで3つの柱と位置づけている。
「文献ジャーナル」は「バックナンバー」の頁を設け創刊号から採録しているので、国会図書館が採録を開始するまでの空白を埋めるデータの宝庫である。

このたび、東京富士大学と覚書を交わし、「文献ジャーナル」421冊のご提供とデータ化、データベース搭載の許可をいただくことになった。
検索結果のデータには、出典を「文献ジャーナル」と明示し、東京富士大学(富士短期大学)の功績を明らかにするほか、協力してデータベースの内容の充実を目指す。



6/21/ 雑誌「みくに」

雑誌本文へのリンクの要望は強い。
しかし、戦前期の雑誌はいまだウェッブ上には公開されていない。弊社独自で本文の整備は力に余る。

国会図書館の戦前期の雑誌のデジタル化は、進んでいるようだが公開はいつになるのか?
また、国会図書館がデジタル化する雑誌名は公開されているが、欠号は欠号のままでその補充はしないらしい。
天文協会(天文月報)のように独自に公開すみのところもあり、理化学研究所(科学主義工業)のように準備中らしいところもある。
こうした進行をにらみながら、準備を進めていこう。

われわれとしては、国会図書館の欠号の補充やデジタル化の予定の無いものなど少しずつ準備して隙間を埋めていく予定。

そのひとつとして、試験的に「みくに」という雑誌のデジタル化・公開を計画している。この雑誌は、戦時中、今泉源吉という人が発行した「日本的キリスト教」の雑誌。天皇絶対の「国体」とキリストの信仰の狭間で苦闘した当時の日本のキリスト者のひとつの姿を今に伝える。
今泉源吉の母堂は徳川の御殿医・桂川甫周の娘「みね」。その今泉みねの回想「名残りの夢」が源吉の聞き書きで連載されている。現在、『名残りの夢』は東洋文庫(平凡社)に収録されている。

この雑誌は、国会図書館にも無くわずかに、次の二館が一部を所蔵するのみである。
東大法近セ明治文庫 1,4(1)<1935-1938>
東北大 本館 8(10)<1942-1942>

この雑誌の完全なそろいが筆者の父の書庫にあったのである。